田嶼 碩朗

SEKIRO TAJIMA

田嶼碩朗(たじませきろう)について

 1878年(明治11年)7月2日に福井県坂井郡三国町で、田嶼珪三(けいぞう:戸籍名)は三男として誕生。

 龍翔小学校にて尋常科4年高等科4年を学んで卒業後は、三国町の彫刻家・島雪斎と島雪舸に入門し木彫を学び、島雪舸に「彫刻家の免許」と「田嶼一舸(いっか)」の雅号を与えられる。

 その後独立し木彫の依頼を受けて生計を立てる。1893年に東京芸術大学に彫塑科が新設の折、一舸は上京し同大学に入学し正木直彦学長と高林光雲名誉教授に師事。卒業後は展覧会に作品を出品して数々の賞を受賞。展覧会の審査員や講師も務めるようになる。

 1914年には東京田端にアトリエを開設。この時雅号を田嶼碩朗と改める。大正皇后陛下が展覧会の朧銀製の山羊をお買い上げ下さったり、明治天皇陛下と大正天皇陛下の御用品制作の名誉に与ることもあった。碩朗の作品は、佛像・動物像・置物・花瓶・その他多岐にわたったが、なかでも人物像の精巧さ・人格の表現力などが高く評価され銅像の依頼が多くなった。樺太・北海道・青森から東京はもちろん九州の小倉まで、全国各地からの依頼を受けた。

 1935年には第二のアトリエ札幌彫塑研究所を開設。

「行啓記念碑」「北大クラーク像」「聖恩讃仰塔」など数々の大作を遺した北海道には深い縁がある。

 1946年、68歳の時に胃潰瘍の再発により帰らぬ人となる。

 生涯をかけ心血を注いだ作品の数々は、戦時中金属供出の命によりそのほとんどが壊され、田端のアトリエも焼夷弾により灰と化したため、残念ながら現存する作品はとても少ない。

 

▲ 田嶼碩朗:大正末期頃

本の紹介

 明治、大正、昭和の三時代に活躍し彫刻界の元老と評されていた彫刻家、田嶼碩朗。生涯に渡り多数の作品を制作したが、戦時中に「金属供出」の名のもと多くの作品は壊され、東京のアトリエも空襲で灰と化した。

 碩朗の実娘が、残された僅かな資料をもとに2016年に書籍化。

田嶼碩朗の彫刻家としての記録の他、北海道大学のクラーク像、札幌大通公園の聖恩碑など現存する作品も多数収録されている。

 

 

 

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行啓記念碑 (北海学園構内)

 

 

 大正天皇陛下が皇太子殿下であせられた明治42年(1909年)に、札幌に行啓なさり北海中学校(現北海学園)構内でご休憩された際の記念碑。

 

【表面】 行啓記念碑(碩朗書)
【裏面】 大正天皇陛下が皇太子殿下に御在せし時行啓遊ばせられこの地を御座所

     となされし記念の為建立す 明治四十二年八月二十九日 戸津高知

 

 白花崗岩の自然の形を活かした一枚岩を用いた(高さ3m)。台座は同じ白花崗岩の自然石で座りがよく安定した美しさがある。(横幅3m)。

クラーク博士胸像 (北海道大学構内)

 

 

 大正15年(1926年)に北海道大学は開基50周年記念として、クラーク像建立を田嶼碩朗に依頼した。昭和18年に第二次世界大戦によって供出されてしまうが、昭和23年には加藤顕清氏監修のもと、札幌独立教会に保存安置されていた石膏原型を用いて鋳造復元された。

背面には「SEKIRO TAJIMA」と記されており、このローマ字は碩朗の長男・行平が書いたものである。

聖恩讃仰塔 (札幌大通公園)

 

 昭和11年(1936年)大34回陸軍特別大演習に総監として昭和天皇が行幸された。札幌市はこの一大行事を記念碑にして後世に遺したいと、その制作を田嶼碩朗に依頼。昭和12年に設計工事着手、同14年(1939年)に施工竣成。

 塔正面中央の「聖恩無彊(せいおんむきょう)」の題字は、「天皇陛下の御代は永遠に続き国民がこうむる恩恵には終わりがない」ということを意味する。

 塔を仰ぎ見て聖恩を褒め讃えるという意から作者である碩朗は「聖恩讃仰塔」と名付けたが、人々からは「聖恩碑」とも呼ばれる。

2016年に書籍「彫刻家 田嶼碩朗」を発刊後、田嶼碩朗への問い合わせが多いため本サイトを設立いたしました。

田嶼碩朗に関するお問い合わせは下記までお願いいたします。

 

064-0951 北海道札幌市中央区宮の森1条1丁目1-12

山崎貞子

FAX : 011-613-8042

MAIL : you@maxdonna.com

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